後輩の名を井原優斗、と言った。
とかく可愛げが無かった。
「イハラくん」
「……」
「聞いてますか」
「聞いてます」
「…なら、態度で示して」
ぶっきらぼうな返事に、自然と物言いがきつくなる。
新入りは胡乱な目でこちらを見遣る。先程までの無表情と打って変わって、実にわかりやすい態度だ。
これからこの少年―――――いや、こいつの顔色をわざわざ見ながら話をしなければならないのかと考えただけで、胃が痛むようだった。
俺、こいつになんかしたっけ?
ほぼ初対面ですけど!
初対面なんですけど!
非常に大事なことなので心の中で五、六度は唱えているが、声には出さない。
言ったら多分、ツンドラの如き冷たい目で見られるに決まっている。絶対だ。
井原優斗は、ひと月前、団長ユリアに拾われたのだという。
勧誘したらOKもらえたから入団させたまでのことだ、と団長はあっけらかんと言ったが、その意味するところは複雑だ。
つまりこの十七歳の少年に、帰るところは無い、ということだから。
あえて空気を読まないユリアは、アキと新入りを残して自分の仕事に戻ってしまった。
気まずい沈黙に耐え兼ねたアキは、井原を行きつけの喫茶店へと誘った。後輩となる少年と、一度話がしてみたかった。
誰何を問うならまず名を名乗る。互いの身の上を知らずとも成り立つ関係はあるが、今回の場合は自己紹介が必要だ。
と、世間様の一般常識と思っていた処世術は、少なくとも、反抗期をこじらせたようなこの少年には通用しなかったらしい。
「改めて言うけど、俺は三戸瑛。危機管理班に所属してる。これからよろしく」
「……」
「……えっと、名前、聞いてもい?」
「―――――イハラユウト、です」
「へぇ。どういう字書くの?」
「井戸の井、野原の原、優しいに北斗七星の斗」
「そっか。俺は数字の三に、ドアとかの戸、名前は……あんま見ない字かも。アキ、って呼ばれてる。あ、どこ出身?元々、旧市街に住んでた?」
「ノーコメント」
「……はい?」
「ノーコメント」
何度も言わせるな、という表情で睨まれる。
アキは驚いて、口を閉ざした。
それからいくつか、ぽつりぽつりと質問をしたものの、ことごとくノーコメントを貫かれ、名前と年齢以外、何も聞き出せずにいる。
どうして自警団に来たのか、家族はどうした、といった相手の背景に突っ込む類の質問はしない。アキも聞かれたくはないし、聞かれても答えられないからだ。自分がしてほしくないことは人にもしてはいけないと、どこかの誰かが言っていた、はず。
だが、と思う。
何某かの情報を得ること自体が目的ではないが、円滑な人間関係のためにもコミュニケーションは重要な役割を果たしている。ちょっとしたことでも、信頼関係を築き上げるには大きな一手だ。互いに、そのように思っているならば。
――――残念なことに、自分が墓穴を掘るような質問ばかりしているのか、それとも相手の機嫌が悪いだけなのか、アキと後輩の言葉のキャッチボールは全く成立しなかった。
ノーコメント。
その一言が、全てを打ち消す。加えて、井原の生意気な態度が、アキの神経を逆撫でする。それが、人の話を聞く態度か、と思わず尋ねたくなるような。井原が溜息をつき、あるいは眉間に皺を寄せる度、こちらの気力がどんどん削がれていくようだった。
冷めて酸味の強まったコーヒーを一息に飲みほして、アキは目の前の相手をじっと見る。アキがオムライスセットを、井原がケーキセットを頼んだのは一時間前のこと。そのくせ、憮然と座る井原は、出されたコーヒーにもケーキにも、一度も手をつけていなかった。苦いのもダメ。甘いのもダメ。キムチでも出せば食うというのか。激辛党なのか貴様は。それとも「コーヒーと洋菓子なんて邪道だ!」とか言っちゃう緑茶和菓子派なのか。
つらつらと考え、アキは、ふっと考えるのを止めた。全部、あてはまらなさそうだ。この状況では。
「なぁ、イハラくん」
「………」
「俺みたいな人間がいろいろ教える、っていうのも烏滸がましいと思うし、君とっては嫌なことかもしれない。けど、一生懸命、自分の仕事に務めたいと思う」
「………」
「自警団に入った以上、そっちもいろいろな事情はあると思う。その事情を詮索するつもりは毛頭無い」
「………」
「ただ、なんというか、世間話くらいはできる仲でありたいと、思うわけです」
「………」
「会ったばかりで言うのも何だけど、もちっと、お互い、友好的に歩み寄れないものだろうか」
今は、アキばかりが一人歩きしている。話をしたい人は厚い壁の向こうで、本人はその壁をとっぱらってくれそうになかった。
井原は目を眇めてアキを見るばかりで、何も言わない。
「用件は、それだけですか」
低く、落ち着いた声が言う。
それだけ。
「これ以上、話す必要が無いのであれば、帰ります」
意味のない時間だ、と言外に井原は仄めかす。
アキは半笑いの表情のまま、固まった。
後輩はメモ帳を取り出して、さらさらとメールアドレスと電話番号を書くと、破り取って、テーブルの上に置いた。その隣に、ケーキットの代金分の小銭を重ねる。
「何か急ぎの用事があったときには連絡してください。仕事だったら駆けつけます」
言い捨てて、そのまま、席を立って、井原は行ってしまった。
ぼーん。タイミングが良いのか悪いのか、十三時半を知らせる柱時計の音が、たった一回、鳴り響く。
アキは息を吐き出し、吐き出して、吸った。吐いた。
頭を抱える。
怒りよりも呆れよりも、ただ、驚いて、何も言えなかった。仲良くする気はありません、という断固たる態度は、いっそ潔い。
何なんだ。俺の中の常識が間違っていたのか。それとも。
「ジェネレーションギャップ……?」
多分、違う。