怒声と群衆の叫びが、遠かった。何が起こったというのか、大通りは天地をひっくり返したような騒ぎだ。
 期末考査を終えて、いつもより早い帰宅に喜んでいた彼は、通りを埋め尽くす人の壁に面食らった。何事だ。これでは家にも帰れないし、ゲーセンにも、コンビニにも行けない。
 つまりは、落ち着いて漫画も読めないし、ドンドコ太鼓も叩けないし、キンキンに冷えたタピオカ入りミルクティーにもありつけない。
 一大事だ。
 しばらく頭を巡らせて、人混みに自分が一分たりとも入り込む隙間がないことを理解した。
 仕方ない、と彼は帰途に路地を選ぶ。
 遠回りになるが、人波に揉まれて圧死するよりはマシなはずだった。

00.





 平日の昼間の路地には、人気が無い。静か。そして薄暗い。
 にぁ、と声をあげて擦り寄ってくる猫を一撫でしてやって、彼はとぼとぼ歩いて行く。
 パトカーのサイレンやスピーカー越しのひび割れた声が、空気を震わせる。
 今日はいったい何が起きたんだ。改めて思う。
 大統領のスキャンダルか。戦争勃発か。汚職露見か。デモ行進と公安部の衝突か。いずれにせよ、問題は遠い。世界で何が起ころうと、一介の中学生にできることなんて殆ど無い。多分。
 いつだって世の出来事は、勝手に始まって、勝手に終わっていく。
 そこに関わる余地は無い。

 不意に、かしゃん、という小さな音を耳が拾って、彼は振り返った。 数メートル先、自分が歩いてきた道の真ん中に、きらきら光るものが落ちている。肩にかけていたエナメルバッグを後ろに回して、近づいて拾い上げる。
 金鎖の懐中時計だった。先程は無かった、から、上から降ってきたのだろうか。
 ふ、と見上げれば灰色の建物と対照的に、真っ青な晴れた空がひどく綺麗で、彼は目を細めた。蒼天の下、初夏の風がふうわりと、―――――鉄錆びたような臭いを運んでくる。
 細めた目を、見開いた。
 青空に黒い影。数秒の空白。声にならない悲鳴をあげて、彼は後ろに跳び退る。血を撒き散らしながら落ちて来るもつれ合った二つの身体は、そのまま、互いを抱き込むようにして地に堕ちた。
 骨と肉が砕け、潰れる音。
 散った血の飛沫が、スニーカーの先を赤く染めた。
 彼は見下ろす。男と女だった。男の身体は、ところどころ抉れていて、肉が剥き出しになっている。女の身体は綺麗だったが、首が変な方向に曲がっていた。
 男の手から、短い棒のようなものが転がり落ちた。ころころころ、血溜まりを揺らして、赤く濡れた棒が止まる。
 彼は呆然と、目の前の折り重なる体を見た。体が動かない。動けない。足は萎えたように立ち尽くして、ただ一歩、前にも後ろにも横にも、踵を浮かせることさえ、できなかった。

 フラッシュバック。一瞬、視界が真っ白に染まる。

 そこから体が言うことをきかなくなった。
 一歩。よろけるように、もう一歩。足が勝手に動く。引き攣った声は喉の奥に押し込められた。びちゃり、赤い水面に映りこんだ己の影、びちゃり、スニーカーが濡れてゆく。眼球の動きさえ、ままならない。彼の目は、魅入られたように、血塗れの棒を見つめる。
 拾い上げる。指に生温い不快な感触。血の濃い臭い。
 棒は、ただの棒ではなく、赤いボタンが付いたリモコンのようだった。レーザーポインターに似ている。けれど違うものだと頭の中で誰かが呟く。誰だ。
 無感情に、見下ろして。
 口の端が、静かに吊り上がった。
 穏やかな微笑みを浮かべたまま、彼はボタンを押した。





 目が覚めた。
 アキは天井を見つめる。
 ゆっくりと、身を起こした。夢の残像を振り払うように、頭を振る。脳味噌が揺さぶられて、くらり、軽い眩暈。
 己が、自分の部屋に居て、手には何も持っていなくて、今は朝で、時計が六時二十七分を指していて、仕事にはまだ行っていなくて、視界の中に血に塗れた人間などいないのだと認識するまでに、だいぶ、時間がかかった。
 最悪な夢だった。
 最悪で、最低で、どこもかしこも間違った、夢だった。
 正しくは――――初夏ではなく冬、路地ではなく教室、空から降ってきた男と女なんていなかったし、猫もいない。笑ってもいなかった、と思う。血を見なかったのは確かだ。
 間違っていると言えるのは、それを過去に体験したからだ。
 忘れてしまえ、と心の中で吐き捨てた。
 どうせ、“前世”の記憶だ。パラサ・カナフで暮らしていくには、不必要なものだった。

 忘れたかった。
 忘れられなかった。
 違う。
 忘れることは、許さない。
 アキ自身が。

 三戸瑛ミトアキラは、覚えていることを選んだ側の人間だ。



 ***



 『余生暮らしは新世界』、というのが、パラサ・カナフのキャッチフレーズだ。

“第一の人生お疲れ様でした。第二の人生は、このパラサ・カナフでお過ごしください。
 我々は、パラサ・カナフの住民に、安定した生活を提供します。“

 それが、パラサ・カナフを訪れた人々が最初に目にする、入界管理局――――人々の世界の行き来を管理する機関の売り文句だった。
 この言葉は、人々の人生事情を知らなくては、理解できない。

 第一の人生と、第一の世界というものがある。
 自分が生まれ、暮らし、育った過程と、自分が生まれ、存在した環境のことだ。

 第二の人生と、第二の世界というものがある。
 第一の人生の後、自分が新たに定めて暮らしていく余生と、自分が新たに存在していく環境のことだ。
 この第二の世界を、パラサ・カナフと呼ぶ。

 第一の人生が終わらないと、パラサ・カナフには来られないし、第一の世界にいる間は、パラサ・カナフの存在を知ることもない。

 「第一の人生の終わり」の区分は、実に単純だ。
 『物語の終わり』が、そのまま、人生の終わりに直結する。

 パラサ・カナフに来るのは、ただの人間ではない。物語の登場人物たちだ。

 魔王を倒し終えた勇者、恋が成就した恋人たち、建国の大王。
 中には特殊な能力や特異な過去を持たない者もいるが、それでも尚、普通の人間とは呼べない。

 物語の中である役目をもって動き続けた彼らは、物語の終わりと共に、その役目を終える。

 役目を終えた登場人物たちは、そのまま、その世界にはいられない。
 どこの誰が決めたのかはわからないが、そういう決まりになっている。
 世界の原理だ。
 抗えない。


 第一の世界が終わると同時、入界管理局の人間が来て、チェックを行う。

 あなたは残りの人生、生きたいですか。
 あなたは今までの記憶を消して、第二の世界で新しくやり直しますか。
 それとも記憶を残したまま、第二の世界で暮らしますか。
 他、エトセトラ。


 そうして、了承した人々をパラサ・カナフに連れて行く。
 了承しなかった人々がどうなったかは、知らない。

 パラサ・カナフは、多数の人と、多種の人を受け入れる世界として成立している。

 その機構は、他の世界と、あまり変わらない。
 パラサ・カナフを統治する政治機関があり、人々を裁く機関があり、病院があり、郵便局があり、学校があり、住宅がある。
 たまに、どこかの人たちと、どこかの人たちが争って、争った後、仲直りをする。

 つまりは第一の世界とあまり変わらないわけだが、唯一違うのは、“運命”に縛られていないということだ。
 “運命”は、物語を創作した者の意図や意志だ。
 登場人物たちは、意識しようが無意識だろうが“運命”のままに操られ、第一の人生を生きた。
 第二の世界には、“運命”が無い。
 つまりは、自分の意志で、全てを決めて生きられる、ということだ。

 その自由に魅了されて、パラサ・カナフに行くことを決める人間も多い。

 第二の世界では、“運命”に縛られた第一の人生を、「前世」と呼ぶ。
 生きているのは第一の世界でも第二の世界でも同じ人間だが、生きている世界が違うから、「前世」。
 その記憶を有している人もいれば、捨てた人もいる。

 パラサ・カナフに移動する際の選択次第だ。

 “運命”の無いパラサ・カナフは、普通の世界と同じ機構を持つが、物語の登場人物たちが暮らす夢の世界なので、いろいろなことが起こる。

 物語を創作したという者たちが暮らす、“現実世界”では、到底あり得ないようなことも。


 その不可思議なことが起こる世界に暮らすアキは、パラサ・カナフを嘲笑って言う。


 どうせ、夢の残骸廃棄場だろう、と。